公地公民の真意
戦後、人権や自由を至上とするリベラルが跋扈(ばっこ)するなか、とくに土地所有権については社会的制約を受けずに絶対性が保持されてきた。このような「絶対的所有権」は土地高騰を生み出したが、その背景には人びとの持家意識を喚起し、それを保護、助長することで経済成長を促すことを優先したことを勘ぐることも可能だろう。よって、わが恩師たる稲本洋之助先生は、ただ土地を所有して値上がりを待つだけの、あるいは転売して儲けを得ようとするだけの源泉となる「絶対的所有権」に風穴を開ける定期借地権の創設に尽力し、健全な土地利用を促そうとした。定期借地権により、所有権には利用権を他人に渡すため一定の「私権制限」が掛かるが、その普及は思ったほどには進んでいない。それは昨今、目立ってきている「空き家問題」に見られるように、人口減少や、それによる土地余り現象にも影響を受けているのだろう。だが、仮に定期借地権が広く普及しても、所有者は地代収入は最大限得ようとし、「公共の福祉」の観点から収入制限を受け入れる動機にはなり得ぬだろう。
一方で、1980年代のバブル経済を惹起(じゃっき)した土地の「絶対的所有権」の際限なき猛威を憂慮していた一人に作家の司馬遼太郎がいる。司馬は土地に狂奔する世相を嘆じて、繰り返し「土地の公有化」を訴えた(『土地と日本人』)。「土地公有」などというと、財産権の要たる土地私有の否定に通じ、共産主義とも見まがうものとなろう。しかしながら、司馬の真意はほかにあったように思える。たとえば、この「土地公有」から史上想起されることに7世紀の大化の改新における「公地公民」があろう。それを天皇による国土と国民の一方的支配とイメージする方が少なくないように思われるが、古来より天皇には権威のみあり、施政は権力者に委ねられたのであり、彼ら施政者は国土と国民を天皇の「大御宝(おおみたから)」として扱うのが実相である。この(西欧とは異なる)非支配体制は現代にもある意味で通じている。国家(天皇)に国民は隷属することなく自立し、国土は私有がなされる前提になっているものの、天皇が国家の象徴として君臨する「公地公民」と捉えられるべきなのである。
私権制限から社会は成り立つ
私は人権至上主義者たちに対抗して「公共の福祉」による「私権制限」を正当化し、上記のような「公有」の概念を敷衍(ふえん)させるには「政治」がその鍵になると思っている。言うまでもなく土地は単体だけでは価値がなく、その土地まで繋(つな)がる公道や、水道、電気、通信などのインフラ、つまりは「公共」の施設やサービスがあって初めて(効率的な)利用価値が生じるのであって、その「公共」の施設やサービスの程度は都市計画はじめ社会における「私権制限」をめぐる調整、すなわち「政治」によって決定される。しかし、現代の「政治」はデモクラシーであるからして人びと自身が施政者であるはずなのに、現実には人びとは代議士である政治家や官僚に「政治」を丸投げしてしまうために、自分たちの「私権制限」を通じて社会が成り立つことに無頓着になり、「私権制限」を一方的だと批判しがちなのだ。つまり土地は「公有」で国家からの「預かりもの」である意識を持つことになるためには、自分たちが施政者として「まち」をつくっていくことが必要不可欠なのだ。
2021/6/30 不動産経済Focus&Research