災厄を祓う
新型コロナウィルスが、世界中の人々の活動を閉塞させた。日本を代表する歴史文化都市であり、国際観光都市として知られる京都も例外ではない。内外からの訪問が途絶え、名所や観光地から人々の姿が消えた。ようやく感染症対策に最大限に心を配りながら、国内の旅行者を受け入れつつある日々が継続している。
新型コロナウイルスの感染が国内でも広まりつつあった2020年3月初旬、八坂神社の境内に悪疫の退散を祈念するべく、「茅の輪」が設置されておおいに話題となった。
祇園の八坂神社の境内に、疫神社という社がある。名の通り、災厄を払いたいと願う人々の信仰を集めている。ここでは毎年7月31日、茅萱を編んだ巨大な「茅の輪」を境内の鳥居に設置して、「夏越祭」が執り行われる。人々は左・右・左と8の字を描いて「茅の輪」を3回くぐりながら、無病息災を願うのが常である。同様に「茅の輪」が造作される6月30日の「大祓式」とともに、八坂神社の夏の風物詩となっている。
それが昨年に限って、季節外れである3月に「茅の輪」が設けられた。かつてコレラが大流行した明治10年に同様の措置がなされて以来の措置というから、実に143年ぶりとなる例外的な対応であった。
疫病と信仰
もちろん京都で暮らす人々が、疫病に襲われるのは今回が初めてではない。医療が未発達な時代、わが国では、悪疫は思いを残して死んだ人々の呪いや、厄神の祟りによるものと信じられていた。先人は「御霊会」と称する儀礼を執り行い、臨時の祭壇に神饌を捧げ、霊を和ませようとした。
古くは9世紀の中頃にも、伝染病が蔓延し、多くの人が生命を落とすことがあったようだ。朝廷はその禍を取り除くべく、貞観5(863)年、神泉苑で牛頭天王を祀る「御霊会」と称する儀礼を執り行った。牛頭天王は、薬師如来を本地仏とする異国由来の神である。外来の神に、疫病からの守護と人々の息災を祈念することで、伝染病がおさまると考えたようだ。しかしそれにも関わらず、不吉な出来事が続いた。
貞観6年には富士山が大噴火を起こし、また貞観11年には現在の東北地方で巨大地震が発生、津波によって多くの犠牲者が出た。都での疫病に加えて、東国での自然災害が人々の不安を募らせた。
朝廷は神泉苑に66本の矛を立てさせて、疫病や震災の原因となった汚れを祓うべく、大々的な「御霊会」を行うこととした。当時の国数66カ国にちなんで、諸国の悪霊を1本ずつに宿らせたわけだ。この時に実践された牛頭天王を祀る祭礼のあり方が、のちに夏に恒例の神事となる。これが7月1日から1カ月間に渡って行われる八坂神社の「祇園祭」の起源とされる。
御霊信仰にゆかりの聖地としては、平安建都以前より疫神を祀る社があったという今宮神社も有名である。正暦5(994)年6月も疫病が大流行をみた。この時、人々は神輿をしつらえて疫神を船岡山に遷して、悪疫退散を祈念した。
さらに長保3(1001)年には、再度、現在の地に遷す神事を実施、これを契機に新たな神殿が建立される。これが今宮神社の創祀だと言われている。
神輿とともに船岡山へ登る際、人々は綾傘に風流を施し囃子に合わせて唄い踊った。この時の祭礼が、今日の「やすらい祭」に継承されている。赤毛や黒毛の異相の鬼たちが赤い衣装を身にまとい、笛や太鼓の囃子にあわせて、長い髪を振り乱して踊る。その独特の趣向もあって、今宮の「やすらい祭」は、太秦の「牛祭」、鞍馬の「火祭」とともに「京の三奇祭」の一つに数えられている。
京都では市民の信仰や伝統行事のなかに、疫病と戦った先人の記憶が刻まれている。それはある意味で、過去から未来へのメッセージと取ることができる。私たちは、神事や祭の由来を学ぶことで、過去に生きた人たちの苦難を共有することが可能になる。
世界がパンデミックに怯えた新型コロナウイルスの流行は、古都の伝統的な神事にも延期や中止などの影響を及ぼした。今後、毎年夏に「茅の輪くぐり」を行うたびに、特別な年となった2020年のことを思い出すことになりそうだ。
平安の都
疫病だけではない。京都は、さまざまな災疫や災害を克服しつつ、長らく日本文化の中心地という役割を担ってきた。都市の歴史を、その始まりにまでさかのぼれば、桓武天皇が長岡京から遷都を進める詔を発したのは延暦13(794)年のことだ。
幅員約84mの朱雀大路を南北軸として、左右対称に格子状の街路網を整える。中国の長安や洛陽などの都城を手本として計画された新しい都は、「平安京」と命名された。一説にこの都は、中国から伝来した風水に基づき、四方を霊獣に守護されている「四神相応」の地に建設されたという。すなわち北にある船岡山を空想上の霊獣である「玄武」、東辺を流れるように改修した鴨川を「青龍」、西に伸びる大道である山陰道を「白虎」、南に水を湛えた巨椋池を「朱雀」に、それぞれ見立てて、その中心に国家を治める平安宮が築かれた。
平安京という名には「平らかで安らか」、すなわち平和な世が継続して欲しいという想いが託されている。しかしその名に反して、都はしばしば戦火に焼かれた。1467年から1477年まで続いた応仁の乱にあっては主な戦場になる。その後、16世紀末には天下統一を進めていた豊臣秀吉によって、聚楽第と称した居城を中心とする城塞都市への改造が行われる。この時、寺院街の再編も断行された。この時に整備された市街地が、今日の京都の原型となる。
都は、近世には大火で焼かれた。1788年の「天明の大火」では、二昼夜にわたり紅蓮の炎に包まれた。さらに1864年に勃発した「禁門の変」では、3万戸が消失する火事が起こった。長州藩と会津藩らの武力衝突のなかで、兵が放った火が市街地に燃え広がったものだ。幾度もの災害にあって、また時代とともに都市はその姿を改めてきたが、明治2(1869)年に東京への奠都が実行されるまで、武家による統治の中心である幕府と、遠く東国の鎌倉や江戸に置かれた時代も含めて、御所はこの地に置かれ続けた。平安を祈念して建設された京の都は、幾度もの激動の時代を乗り越えつつ、実に1100年にわたって、わが国の首都であり続けた。
京都は、まさに持続可能性を体現した都市のモデルであると言ってよいだろう。その本質は、政治体制や社会、人々の意識がどう変わろうと、いかなる戦火や災疫で脅かされそうとも、そして都市のありようがいかに変化しようと、京都は「平安の都」として遠い将来も維持されているという確信にある。
パンデミックによる緊急事態で先が見えないなかで、復興を重ねながら継続して発展する都市のありようを、この歴史都市から学ぶことができる。
2021/4/14 不動産経済Focus&Research(旧・不動産経済FAX-LINE)